日本では、スピリチュアルという言葉の意味することと霊能力(霊視、霊聴など)とを、混同して捉えられている傾向があるように思います。しかし、両者はイコールではありません。
私は、スピリチュアルな道を追求し始めた最初から、例えば、幽体離脱や霊視、霊聴ができること自体には、特別関心がありませんでした。スピリチュアルな成長の結果、それらの能力は自然に備わるんだと、その頃から思っていました。また、それは、人それぞれに備わる個性みたいなもので、それらの霊能力イコール霊性の高さを示すものではない、と思っていました。そして、それは正しいと思っています。
例えば、「元悪魔崇拝者ジョン・ラミレスの証」(YouTubeで公開されています)で、自分自身の体験を語るジョン・ラミレスは、悪霊が彼に入り、透視や幽体離脱をして、サイキックアタックを行う、ということを20数年間、繰り返していました。このことが示唆するのは、「霊能力」は、霊性の高さとは関係がない、ということです。「霊能力」はツールにしかず、霊性の進化の為に、あってもなくてもいいものであると、私は思っています。
むしろ、それに足をすくわれて、「サイキック能力があるから霊的に高い」と誤解している人の中には、スピリチュアルなエゴの強い人が多かったような気がします。
これと関連しますが、先月お会いした宮司さんは、それより一歩進んで、【霊能力】と【法力】を明確に区別して、前者を【危険なもの】と断言していました。
彼に拠ると、【法力】は、霊的な成長、つまり、魂の光を覆うものが浄化し、魂の光が放射するに伴う能力、つまり、いろんなことがわかったり、見えたりする能力です。それは、神界、霊界を介する能力です。
一方、【霊能力】は、霊的な成長とは関わりのないもので、彼にいわせると、(怨)霊が第三の目に入ったことによるものであって、それは、非常に危険だということです。彼は、明治時代の審神者(さにわ)がそうしたように、声が聞こえたり、見えたりする場合、それが何者なのか、ということを非常に注意深く探る必要があると、強調します。確かに、アメリカの知り合いで、第3の目を開きたくて、それを開く瞑想をしていたら、スピリットがやって来て、非常に恐ろしく、大変な目に会ったという人がいました。
自分の意識の波動が高次になっていないのに、無闇に不必要なセンターをアンバランスな形で開けると、その辺にたむろしている霊が第3の目をめがけてやって来たりするわけですね。だから、エネルギーセンターは、必要な時に開けて、必要でないときは閉じるという、開閉や調整が自由にできることが大事だと思います。
霊的な高さは、第3の目がどれ位開いているかどうかによってではなく、当たり前のこと、例えば、「親切であること」、「他者を思いやること」、「愛と感謝の気持ちを持っていること」、「人知れずとも、他者の為に心から祈ること」等・・・そんな当たり前のことで、察することができると思うのです。サイキック能力や、スピリチュアルの知識がどれだけあるかということとは関係のないことです。
日本のスピリチュアルについての理解には、その点での混乱があるように思うので、私の見方をお伝えしておきたくて、今日は、シェアしました。